私が毎日新聞京都支局に赴任して驚いたのは、5月1日のメーデーに市内の小、中学生全員が参加していたことだった。10万人以上の集会の前の方は子供たちで溢れていた。メーデーは労働者の祭典だが、そこになぜ小、中学生を参加させるのか、教育として意味があるのかどうか疑問に感じたからである。すべては革新的といわれた蜷川虎三知事の指示だった。
どんなに怖い知事だろうと思っていたが、その蜷川知事がときどき三条御幸町にあった京都支局にやってくるようになった。京都タワー建設反対の世論醸成のためだった。支局は反対派の拠点になっており、主導していたのは蜷川知事だったのである。支局に入ってくると知事はわれわれ新米記者にも「がんばれよ」と声をかけてくる気さくなおじさんだった。
京都タワー建設にからんで景観論争が起きていることはその前の年から承知していた。京都では東寺の五重塔より高い建造物は建ててはならないという不文律があった。しかし京都の表玄関にランドマークを作りたいとして京阪電鉄グループが京都タワー構想を発表、学者、文化人たちが「歴史的都市にふさわしくない」と反対運動を繰り広げたのである。
京都の財界は建設を支持、建物の設計が京大関係者だったため京大系の学者は沈黙、反対運動は広がらなかった。結局「タワーは建造物ではなく工作物である」という理由で承認され、私が赴任したときには建設が始まっていた。
けれども知事は諦めきれないらしく、支局にやってきて府政担当記者に「○○さんがデザインがおかしいと言っている。記事にしたらどうか」とか「××さんはもっと低くすべきだと言っている」など記事化を促していた。ときには朝日の記者もやってきて打ち合わせしていた。こうした反対も効果なく京都タワーは1964年8月完成した。
現在、京都タワーはすっかり京都の街に融けけ込み、シンボルとなっている。この私でさえ、新幹線の窓から京都タワーを見るとなんとなく安らぎを覚える。同時にあの反対運動は何だったのだろうと思うのである。