司馬遼太郎さん

私が京都支局に赴任してすぐ、先輩たちに先斗町の上品な飲み屋につれていかれた。「ますだ」という店で、14、5人が座れるカウンターのある店だった。そこが私の行きつけの店になった。「おたかさん」という気っぷのいい女将さんがいて、非常によく面倒をみてくれた。なにしろ週に2、3回は通って浴びるほどツケで飲んでいたが、ボーナスのとき請求されるのは3万円ほどだった。「こんなに安くていいの」と尋ねると「偉い人からはちゃんともらっているからいいのよ。あなたも偉くなったらきちんと払ってね」という返事だった。いわやる一種の出世払いということだった。

店の常連客は画家、陶芸家、随筆家、京大教授などの文化人だった。あるとき顔を出すと作家の司馬遼太郎さん、水上勉さんがそろって来ていた。2人はなぜか離れた席に座っており、私は司馬さんの隣の席に座ることになった。女将が「今年入った毎日の記者さん」と私を紹介、名刺を交わした。

司馬さんは「いまサツ回りですか。忙しいでしょう」と問いかけたあとサンケイ新聞記者時代の自分の体験を語り始めた。司馬さんは1948年から1952年まで4年間、京都支局に勤務している。

「私も京都支局振り出しですがサツ回りはやりたくなかった。サツ回りは仕事に追われて自分の時間が取れない。そこでね。お寺まわり、即ち宗教担当を希望したんです。そしたら希望を聞き入れてくれた。お寺回りは一日中自由時間みたいなものです。そこで文献を読みまくりましたね」

「司馬さんは記者クラブのベッドで寝てばかりだったという噂を聞きましたが」

と尋ねると

「ハッハッハ、やっぱり見られていましたか。自宅で夜遅くまで文献を整理したり、ものを書いたりしていましたからね。私にとって記者クラブは寝る場所だったんですよ」

という返事だった。宗教担当の記者クラブがどこにあったのか正確には知らないが、多分、西本願寺あたりだと思う。

私は続いて

「最近読まれた小説で、これは読みなさいというものはありますか」

と尋ねた。すると

「あそこにいらっしゃる水上さんの『越前竹人形』ですよ。これはぜひお読みなさい」

と声を上げて返事された。水上さんの耳にも入ったらしく、水上さんがこちらを向いて頭を下げた。

私はさらに「深沢七郎をどう思いますか」と尋ねようとしたとき、司馬さんと水上さんは立ち上がり、「ではこれで」と帰っていかれた。おそらく別の店に行かれたのだろう。いつかまたお会いできるとおもっていたが、その機会は訪れなかった。

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