2人の岡田茂さん(上)

1964年6月、京都右京区にある東映太秦撮影所所長に岡田茂さんが赴任してきた。三越の銀座支店長としてマスコミを賑わしている人と同性同名なので興味を持ち、インタビューを申し込んだらすぐにOKがきた。

お会いしてみると非常に大柄で、思っていることをズバズバ話す人だった。開口一番言ったのは「三越の岡田茂さんのように有名になりたい」だった。また「東映は時代劇が得意だからやはりその分野に力を入れるんですか」という質問には「いや、もう時代劇のピークは過ぎた。別の分野を模索したい」という返事だった。

そして岡田さんは「撮影所の中を見ますか」と私を撮影所の隅々まで案内してくれた。驚いたのはどこに行ってもスタッフたちが岡田さんに挨拶をし、岡田さんの指図にすぐに従っていたことだった。着任からそう経っていないのに完全に部下を掌握していることが分かった。

後で知ったのだが、岡田さんは入社して間もなく、「戦没学生の手記 きけ わだつみの声」をプロデュース、将来のトップと目されるようになった。東映の看板になった時代劇の多くも手掛けていた。そして太秦撮影所長としては二度目のお勤めだったのである。「三越の岡田茂さんのように有名になりたい」と語ったのは、派手な言動をする経営者をチヤホヤするマイスコミへの皮肉だったのかもしれない。

岡田さんのその後の活躍ぶりも目覚ましい。任侠路線で成功する傍ら、2000人いた太秦撮影所の人員を700人へと大幅にカット、大赤字だった東映の経営を立て直した。また1971年に社長に就任したあとやくざ映画、ポルノ、大奥㊙物語シリーズと次々成功させ、「日本映画界のドン」とか「娯楽界の帝王」と言われ大きな足跡を残した。

私か岡田茂さんに次に会ったのは、岡田さんが東京広島県人会の会長に就任された1994年である。新聞記者でありながらなかなかご縁がなかったのだった。「昔、京都でお会いしました」というと「あのときの記者さんですか」と覚えておられた。記憶力も抜群の人だった。

太秦撮影所太秦撮影所

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