工藤芝蘭子さん

 京都・嵯峨野に俳人の聖地のひとつとされる落柿舎がある。向井去来が住み、松尾芭蕉も何度か訪れたといわれる小さな庵である。そこに工藤芝蘭子という俳人が住み込み、管理していた。訪れた人には見学も許し、名所になっていた。心が休まる場所であり、私もしばしば訪れた。

 工藤芝蘭子は戦前、堂島の米相場で大金を稼ぎ、大阪中之島公会堂建設にも尽力した人だった。俳人としても頭角を現し、朽ちかけていた落柿舎を購入して修理し守っていたのである。通い初めてほぼ1年が経ったころ芝蘭子さんが突然「助けてください」と私に頭を下げた。「なんですか」と尋ねると、「実は車折(くるまざき)神社が私を追い出そうとしているのです」と言うのである。芝蘭子さんによると車折神社は落柿舎を手に入れようと周辺の土地を買い占め、落柿舎の買収に応じなければ周囲を封鎖すると通告してきている、と訴えるのであった。新聞社にとっては格好の町ダネである。

 しかし裏をとらなくてはならないので。車折神社に行ってみた。すると「あなたは今のやり方で落柿舎がずっと存続できると思っているんですか」と逆に質問されてしまった。工藤さんが元気なうちはいいかもしれませんが、今の入園者数と拝観料ではいずれ経営が行き詰まります。そのときに備えているだけですと言うのだった。確かに一理あった。どういう記事にするか迷っていた時、私は中部本社への転勤を申し渡された。転勤準備で慌ただしかったこともあり、落柿舎の記事は書けないままだった。

 中部本社に着任して暫くたつと、落柿舎問題はやはり書いておくべきだったと後悔の念にかられた。所属が替わった以上、わたしが書いて出稿することはできなかった。それとなく探ってみると、落柿舎に異変は起きていなかった。わたしが取材に行ったため、神社も行動を自重しているのだろうと思うことで気を休めていた。しかし公開の年は続いた。そのうち芝蘭子さんの訃報を聞いた。いつかお墓の前でお詫びしようと心に誓った。

 工藤芝蘭子さんは「俺の墓は大津の義仲寺に作ってもらう。予約もしている」と語っていた。記事にしなかったお詫びにいつかお参りしようと思っていた。しかしなかなか機会がなかったが、数年前、地方紙の元東京支社長の会が大津で開かれた。時間を割いて義仲寺に行ってみた。境内をいくら探しても芝蘭子さんの墓はなかった。お寺の人に尋ねると「もう一か所墓地があり、そちらです」と道順を教えてくれた。義仲寺から3~400メートル離れた国道一号線沿いにその墓地はあった。4、50基の小さな墓が並んでおり、聞き覚えのある俳人の名前がいくつ刻んであった。その一角に工藤芝蘭子さんの墓が立っていた。私は5分ばかり手を合わせ、その場を去った。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください