新幹線桂川鉄橋事故

 私の長かった記者生活の中で最も凄惨な事故を体験したのも京都時代だった。1964年7月17日午後4時頃のことであ。右京区の太秦署記者クラブにいたとき、警察署次長から「新幹線の桂川鉄橋で人身事故があったようです」と連絡があった。東海道新韓線は10月の開業を控えテスト走行が始まっており、その最初の事故と分かった。まず支局に連絡するとすでに府警本部から情報が入っており「直ちに現場に向かえ」と指示された。

 桂川鉄橋は右京区内であり、私の担当区域である。すぐにタクシーを呼んで現場に着くと、支局の社有車で来た先輩記者2人が既に到着しており、その1人の岡本健一記者(のちに稲荷山古墳鉄剣のスクープで新聞協会賞受賞)が原稿を支局に送り始めていた。事故は子供が鉄橋の中央付近で新幹線の列車にはねられたのだった。本当の担当者は私だから、記事は私が書かなくてはならないが、先輩がやってくれているので私は補足取材を始めた。

 不思議なことに、現場には縄が張ってなく、有刺鉄線をくぐれば線路内に自由に出入りできるようになっていた。線路の枕木の上には肉片がちらばっており、7~800メートルにわたって飛び散っているとの話だった。桂川の堤防や川原には手足の骨が散らばっていた。目もあてられなかったのは、顔の皮膚が橋梁の高さ2メートルのところに能面のようにぴたっと張り付いていることだった。近くにいた男の人が「大阪のテレビ局の者ですが、怖くて直視できません。具体的にどういう状況なのか説明してもらえませんか」と声をかけてきた。そこで私は「顔の皮膚が能面のように張り付いています。能面には目がありますが、この能面は目がくり抜かれたようになっています」と伝えた。

 被害者が誰であるかはなかなか分からなかった。ようやく午後6時半ごろ、近くの中学2年生と判明した。友達と3人で桂川東側の鍵がかかっていない作業員入口から線路に入り込み、鉄橋の上を歩いているとき時速200キロ近いスピードの列車に逃げきれなかったのだった。友達2人はなんとか列車をかわして助かり、恐怖のあまり自宅で震えており、肉親にも伝えていなかった。国鉄はこの事故を教訓に今のように頑丈な防護壁をつくったのである。

 凄惨な現場の映像は新聞も載せなかったしテレビも放映しなかった。そのせいか、この事故は現在、いくらネットで検索しても見つからない。完全に忘れ去られている。しかし私は今でも夢で見る。

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