私は昭和40年8月1日付で毎日新聞中部本社報道部に勤務することになった。やはりサツ回り、すなわち警察担当であり、県警本部キャップの指揮下に入った。サツ回りは4人いて私の最初の守備範囲は東署、千種署、西署、守山署だった。午前中は各署を巡回、午後は行政区画の東区、千種区、西区、守山区で街ダネを拾うのである。
京都と違って有名な寺社仏閣は無く、記事になりそうな話題を探すのは一苦労だった。あるとき、守山区で作陶していた加藤唐九郎さんを訪ねた。加藤唐九郎さんは「永仁の壺」贋作事件の主役である。
「永仁の壺」贋作事件というのは、鎌倉時代の永仁2年(1294)に製作され守山区志段味から出土した貴重な壺であるとして昭和34年に国の重要文化財に指定された壺について、一部の学者から疑義がだされ、科学鑑定の結果贋作と分かり、2年後指定が取り消された事件。指定を推進した文部省の技官は辞職に追い込まれた。
しばらく犯人捜しが続いていたが加藤唐九郎さんが昭和35年9月25日の朝日新聞紙上で「私が昭和12年ごろ作ったもの」と名乗り出た。ニセ物作りの犯人として大騒ぎになり唐九郎さんは「無形重要文化財、いわゆる人間国宝の指定からはずされた。
私が加藤唐九郎さんを訪ねたのは、なぜ自分から名乗り出たのかを尋ねようと思ったからだった。予約もせず突然の訪問だったのに、唐九郎さんは快く会ってくれた。そして言った。「これだけの技術を持っている人は滅多にいません。いずれは私だと分かります。面白半分に「永仁二年」と壺に彫り込んだのは反省していますが、名乗り出ることによって幾分かは罪が軽くなるし、むしろ私の技術が認められる可能性があると思ったのです」。大変な自信だった。
話を聞いた後、棚に置かれていた茶碗や徳利などの作品を見せてもらった。ほれぼれするようなものばかりだった。加藤唐九郎さんは悪い人という意識が失せ、むしろ尊敬する気持ちが沸いてきた。そして世間もそうだったようである。評価はその後うなぎ上りになった。
私はその後も2、3回、加藤唐九郎さん宅を訪ねたが常に留守だった。なぜだろうと不思議に思っていたが、加藤唐九郎編「原色陶器大辞典」を購入してあとがきを読んで、辞典の編纂で京都の淡交社に泊まり込んでいたためと知ったのだった。