諸戸民和さん

 名古屋勤務になって間もなく、何かの会議でお目にかかった諸戸民一諸戸林産社長と親しくなった。私は日本の林業に関心があり、諸戸社長は経済同友会の役員として中山素平代表幹事から「林業のことは諸戸に聞け」と言われるほど信頼されているという噂を聞いていたため積極的に接近したのだった。

諸戸家は日本の三大山林王の一つであり、三重県を中心に広大な山林を持っていた。しかし安い外材の輸入で日本の木材価格が暴落、林業の経営は厳しい状況になっていた。諸戸さんは「このままでは間伐もできないし、木を運び出す林道も作れなくなる」と窮状を訴えていた。私は「経済同友会で政府に提言すればいいのでは」と言うほかなかった。

 それから間もなく「今飲んでいるところです。来ませんか」と誘いがたびたびかかるようになった。名古屋観光ホテル最上階に諸戸さん行きつけのバーがあった。そこに駆け付けるとテーブルにバランタイン17年のボトルが置いてあり、それをロックか水割りで飲むのだった。おつまみは黴のはえたチーズに決まっていた。

 あるとき「こんなものがあるんですが」と見せられたのが夏目漱石の弟子で娘婿の松岡譲が書いた原稿用紙200枚ほどの直筆の原稿「諸戸精六伝」である。諸戸精六は諸戸さんの祖父であり、一代で山林王になった人である。読むと、父親が残した借金を返したうえで、如何にして財産を築いたかが克明に描かれていた。松岡譲に多額の謝礼を払って書いてもらったものということだった。

 諸戸さんは「これを出版しようと思うが君はどう思う」と尋ねた。私は「失礼ながら出版してもほとんど売れないと思います。この原稿を家宝として大事にされたらどうですか」と申し上げた。おそらく家宝にされているのであろう。松岡譲の女婿にあたる半藤一利さんが編纂された「松岡譲著作集」に記録がないので5、6年前半藤さんに連絡を差し上げたが返信はなかった。

 諸戸さんからはまた「レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読みましたか。まだなら是非読みなさい」と勧められた。日本で翻訳され出版された直後だった。すぐに買って読んでみると驚くような内容だった。私たちが朝鮮から引き揚げてきたとき、博多の港で米兵によって頭から真っ白になるほどかぶせられたDDTの弊害が書かれていた。DDTは広島の実家でも大量に使用され、農家にとって無くてはならないものになっていた。

 諸戸さんからはまた「レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読みましたか。まだなら是非読みなさい」と勧められた。日本で翻訳され出版された直後だった。すぐに買って読んでみると驚くような内容だった。私たちが朝鮮から引き揚げてきたとき、博多の港で米兵によって頭から真っ白になるほどかぶせられたDDTの弊害が書かれていた。DDTは広島の実家でも大量に使用され、農家にとって無くてはならないものになっていた。

 諸戸さんからはまた「レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読みましたか。まだなら是非読みなさい」と勧められた。日本で翻訳され出版された直後だった。すぐに買って読んでみると驚くような内容だった。私たちが朝鮮から引き揚げてきたとき、博多の港で米兵によって頭から真っ白になるほどかぶせられたDDTの弊害が書かれていた。DDTは広島の実家でも大量に使用され、農家にとって無くてはならないものになっていた。レイチェル・カーソンはDDTのほかにもいろんな薬品が公害をもたらしていることをこまかく指摘していた。まさに公害の教科書だった。諸戸さんは公害問題について私の目を開かせてくれたのだった。

加藤唐九郎さん

 私は昭和40年8月1日付で毎日新聞中部本社報道部に勤務することになった。やはりサツ回り、すなわち警察担当であり、県警本部キャップの指揮下に入った。サツ回りは4人いて私の最初の守備範囲は東署、千種署、西署、守山署だった。午前中は各署を巡回、午後は行政区画の東区、千種区、西区、守山区で街ダネを拾うのである。

 京都と違って有名な寺社仏閣は無く、記事になりそうな話題を探すのは一苦労だった。あるとき、守山区で作陶していた加藤唐九郎さんを訪ねた。加藤唐九郎さんは「永仁の壺」贋作事件の主役である。

 「永仁の壺」贋作事件というのは、鎌倉時代の永仁2年(1294)に製作され守山区志段味から出土した貴重な壺であるとして昭和34年に国の重要文化財に指定された壺について、一部の学者から疑義がだされ、科学鑑定の結果贋作と分かり、2年後指定が取り消された事件。指定を推進した文部省の技官は辞職に追い込まれた。

 しばらく犯人捜しが続いていたが加藤唐九郎さんが昭和35年9月25日の朝日新聞紙上で「私が昭和12年ごろ作ったもの」と名乗り出た。ニセ物作りの犯人として大騒ぎになり唐九郎さんは「無形重要文化財、いわゆる人間国宝の指定からはずされた。

 私が加藤唐九郎さんを訪ねたのは、なぜ自分から名乗り出たのかを尋ねようと思ったからだった。予約もせず突然の訪問だったのに、唐九郎さんは快く会ってくれた。そして言った。「これだけの技術を持っている人は滅多にいません。いずれは私だと分かります。面白半分に「永仁二年」と壺に彫り込んだのは反省していますが、名乗り出ることによって幾分かは罪が軽くなるし、むしろ私の技術が認められる可能性があると思ったのです」。大変な自信だった。

 話を聞いた後、棚に置かれていた茶碗や徳利などの作品を見せてもらった。ほれぼれするようなものばかりだった。加藤唐九郎さんは悪い人という意識が失せ、むしろ尊敬する気持ちが沸いてきた。そして世間もそうだったようである。評価はその後うなぎ上りになった。

 私はその後も2、3回、加藤唐九郎さん宅を訪ねたが常に留守だった。なぜだろうと不思議に思っていたが、加藤唐九郎編「原色陶器大辞典」を購入してあとがきを読んで、辞典の編纂で京都の淡交社に泊まり込んでいたためと知ったのだった。

新幹線桂川鉄橋事故

 私の長かった記者生活の中で最も凄惨な事故を体験したのも京都時代だった。1964年7月17日午後4時頃のことであ。右京区の太秦署記者クラブにいたとき、警察署次長から「新幹線の桂川鉄橋で人身事故があったようです」と連絡があった。東海道新韓線は10月の開業を控えテスト走行が始まっており、その最初の事故と分かった。まず支局に連絡するとすでに府警本部から情報が入っており「直ちに現場に向かえ」と指示された。

 桂川鉄橋は右京区内であり、私の担当区域である。すぐにタクシーを呼んで現場に着くと、支局の社有車で来た先輩記者2人が既に到着しており、その1人の岡本健一記者(のちに稲荷山古墳鉄剣のスクープで新聞協会賞受賞)が原稿を支局に送り始めていた。事故は子供が鉄橋の中央付近で新幹線の列車にはねられたのだった。本当の担当者は私だから、記事は私が書かなくてはならないが、先輩がやってくれているので私は補足取材を始めた。

 不思議なことに、現場には縄が張ってなく、有刺鉄線をくぐれば線路内に自由に出入りできるようになっていた。線路の枕木の上には肉片がちらばっており、7~800メートルにわたって飛び散っているとの話だった。桂川の堤防や川原には手足の骨が散らばっていた。目もあてられなかったのは、顔の皮膚が橋梁の高さ2メートルのところに能面のようにぴたっと張り付いていることだった。近くにいた男の人が「大阪のテレビ局の者ですが、怖くて直視できません。具体的にどういう状況なのか説明してもらえませんか」と声をかけてきた。そこで私は「顔の皮膚が能面のように張り付いています。能面には目がありますが、この能面は目がくり抜かれたようになっています」と伝えた。

 被害者が誰であるかはなかなか分からなかった。ようやく午後6時半ごろ、近くの中学2年生と判明した。友達と3人で桂川東側の鍵がかかっていない作業員入口から線路に入り込み、鉄橋の上を歩いているとき時速200キロ近いスピードの列車に逃げきれなかったのだった。友達2人はなんとか列車をかわして助かり、恐怖のあまり自宅で震えており、肉親にも伝えていなかった。国鉄はこの事故を教訓に今のように頑丈な防護壁をつくったのである。

 凄惨な現場の映像は新聞も載せなかったしテレビも放映しなかった。そのせいか、この事故は現在、いくらネットで検索しても見つからない。完全に忘れ去られている。しかし私は今でも夢で見る。

工藤芝蘭子さん

 京都・嵯峨野に俳人の聖地のひとつとされる落柿舎がある。向井去来が住み、松尾芭蕉も何度か訪れたといわれる小さな庵である。そこに工藤芝蘭子という俳人が住み込み、管理していた。訪れた人には見学も許し、名所になっていた。心が休まる場所であり、私もしばしば訪れた。

 工藤芝蘭子は戦前、堂島の米相場で大金を稼ぎ、大阪中之島公会堂建設にも尽力した人だった。俳人としても頭角を現し、朽ちかけていた落柿舎を購入して修理し守っていたのである。通い初めてほぼ1年が経ったころ芝蘭子さんが突然「助けてください」と私に頭を下げた。「なんですか」と尋ねると、「実は車折(くるまざき)神社が私を追い出そうとしているのです」と言うのである。芝蘭子さんによると車折神社は落柿舎を手に入れようと周辺の土地を買い占め、落柿舎の買収に応じなければ周囲を封鎖すると通告してきている、と訴えるのであった。新聞社にとっては格好の町ダネである。

 しかし裏をとらなくてはならないので。車折神社に行ってみた。すると「あなたは今のやり方で落柿舎がずっと存続できると思っているんですか」と逆に質問されてしまった。工藤さんが元気なうちはいいかもしれませんが、今の入園者数と拝観料ではいずれ経営が行き詰まります。そのときに備えているだけですと言うのだった。確かに一理あった。どういう記事にするか迷っていた時、私は中部本社への転勤を申し渡された。転勤準備で慌ただしかったこともあり、落柿舎の記事は書けないままだった。

 中部本社に着任して暫くたつと、落柿舎問題はやはり書いておくべきだったと後悔の念にかられた。所属が替わった以上、わたしが書いて出稿することはできなかった。それとなく探ってみると、落柿舎に異変は起きていなかった。わたしが取材に行ったため、神社も行動を自重しているのだろうと思うことで気を休めていた。しかし公開の年は続いた。そのうち芝蘭子さんの訃報を聞いた。いつかお墓の前でお詫びしようと心に誓った。

 工藤芝蘭子さんは「俺の墓は大津の義仲寺に作ってもらう。予約もしている」と語っていた。記事にしなかったお詫びにいつかお参りしようと思っていた。しかしなかなか機会がなかったが、数年前、地方紙の元東京支社長の会が大津で開かれた。時間を割いて義仲寺に行ってみた。境内をいくら探しても芝蘭子さんの墓はなかった。お寺の人に尋ねると「もう一か所墓地があり、そちらです」と道順を教えてくれた。義仲寺から3~400メートル離れた国道一号線沿いにその墓地はあった。4、50基の小さな墓が並んでおり、聞き覚えのある俳人の名前がいくつ刻んであった。その一角に工藤芝蘭子さんの墓が立っていた。私は5分ばかり手を合わせ、その場を去った。

2人の岡田茂さん(下)

三越の岡田茂社長に初めて会ったのは、毎日新聞東京洗車経済部の移ってきた1977年12月だった。最初の担当が百貨店、スーパーなどの流通業界だったからである。それまでにも中部本社経済部に在籍したとき、名古屋のオリエンタル中村百貨店が三越の傘下に入ることになったので岡田社長にインタビューを申し込んだことがあった。しかし名古屋の記者と名乗ると、「地方の記者には会いません」と秘書に断られた。仕方なく中野区にあった岡田社長邸に夜回りに行ったが、黒塀に囲まれた邸内には入れてもらえず、あえなかった。田舎の記者は相手にしないという姿勢だったのである。

東京に転勤してようやくアポイントが取れたので久しぶりに日本橋の三越本店を訪れた私は店内の様子に驚いた。私が知っていた三越は、上品で威厳があり、いかにも百貨店です、という店だった。ところが訪れた三越には所かまわず赤札がぶらさがり、まるで赤札堂のようになっていた。

挨拶のあと「赤札堂のようですね」というと「どういう意味だ」と尋ねられた。「昔の雰囲気が失われたような気がして」と答えると「何をいう」と怒りだした。「百貨店といえどもお高くとまっていたのでは駄目だ。商売人は売ってなんぼだ。俺は銀座三越で、このやり方で成功した」と言い、とうとうと自慢話を始めた。「みんなこの自慢話に騙されたのだな」と思った。以後、インタビーを申し込んでも許可は出なかった。幸い私の流通業界担当は3か月で終わったので取材に影響はなかった。

5年後の1982年9月22日、財界担当になっていた私は小山五郎三井銀行社長の「面白いことが起きるよ」というアドバイスに従って三越の臨時記者会見に出席してみた。なんと岡田社長が解任されたのだった。「なぜだ」という言葉を残して退任した岡田社長の悪行がその後次々と暴露されていった。東映の岡田茂さんは人格高潔な人だったが、その人が一時目標にしていた三越の岡田茂さんは、目標に値しない人物だったのである。

2人の岡田茂さん(上)

1964年6月、京都右京区にある東映太秦撮影所所長に岡田茂さんが赴任してきた。三越の銀座支店長としてマスコミを賑わしている人と同性同名なので興味を持ち、インタビューを申し込んだらすぐにOKがきた。

お会いしてみると非常に大柄で、思っていることをズバズバ話す人だった。開口一番言ったのは「三越の岡田茂さんのように有名になりたい」だった。また「東映は時代劇が得意だからやはりその分野に力を入れるんですか」という質問には「いや、もう時代劇のピークは過ぎた。別の分野を模索したい」という返事だった。

そして岡田さんは「撮影所の中を見ますか」と私を撮影所の隅々まで案内してくれた。驚いたのはどこに行ってもスタッフたちが岡田さんに挨拶をし、岡田さんの指図にすぐに従っていたことだった。着任からそう経っていないのに完全に部下を掌握していることが分かった。

後で知ったのだが、岡田さんは入社して間もなく、「戦没学生の手記 きけ わだつみの声」をプロデュース、将来のトップと目されるようになった。東映の看板になった時代劇の多くも手掛けていた。そして太秦撮影所長としては二度目のお勤めだったのである。「三越の岡田茂さんのように有名になりたい」と語ったのは、派手な言動をする経営者をチヤホヤするマイスコミへの皮肉だったのかもしれない。

岡田さんのその後の活躍ぶりも目覚ましい。任侠路線で成功する傍ら、2000人いた太秦撮影所の人員を700人へと大幅にカット、大赤字だった東映の経営を立て直した。また1971年に社長に就任したあとやくざ映画、ポルノ、大奥㊙物語シリーズと次々成功させ、「日本映画界のドン」とか「娯楽界の帝王」と言われ大きな足跡を残した。

私か岡田茂さんに次に会ったのは、岡田さんが東京広島県人会の会長に就任された1994年である。新聞記者でありながらなかなかご縁がなかったのだった。「昔、京都でお会いしました」というと「あのときの記者さんですか」と覚えておられた。記憶力も抜群の人だった。

太秦撮影所太秦撮影所

日本学術会議は改革が必要

6人の学者が会員に任命されなかったのは学問の自由の侵害だとして問題になっている日本学術会議だが、会議自体が先端技術開発を妨害している疑いが出てきた。自らが学問の自由に反する行動をしているのである。最近、日本の研究論文が目に見えて減っている一因とも考えられる。組織の見直しが必要なようだ。

ハイブリッドロケットの研究で知られる永田晴紀北海道大学教授が明かしたところによると、北大関係で2件の先端技術開発研究が日本学術会議の執拗な反対で中止になったという。一つは2016年に申請していったんは了承された「微細の泡で船底を覆い、船の航行の抵抗を減らす」という流体力学の専門家の研究。成功すれば燃費を10%は減らせるという画期的な研究になるはずだった。ところが日本学術会議は「この研究は軍事に応用される恐れがある」として猛反対、幹部数人が北大総長室に押しかけ、研究費の助成を辞退するよう迫った。このため北大は2017年末、辞退を表明、研究は中止された。日本学術会議は文科省予算執行に大きな権限をもっているため、北大としても従うしかなかったらしい。

もう一つは、永田教授が防衛省の安全保障技術研究推進制度に応募しようとした「個体燃料と液体燃料を組み合わせロケットの推進力を高める研究」。これは前例から申請するのは無理と判断した北大自身が補助金申請を見送ったという。

このほかいくつかの大學がロボット研究やAI研究を始めると「軍事技術につながる」として恫喝しつぶしたケースも報告されている。いずれも「軍事目的のための科学研究は行わない」という日本学術会議の声明に基づくものだが、コンピューターをはじめ軍事技術から生まれた先端技術は非常に多い。日本学術会議のように次々と先端技術開発研究をつぶしていたのでは日本の国力は落ちるばかりである。この際、日本学術会議そのものを解体するか、民間の組織にするか検討すべきである。

司馬遼太郎さん

私が京都支局に赴任してすぐ、先輩たちに先斗町の上品な飲み屋につれていかれた。「ますだ」という店で、14、5人が座れるカウンターのある店だった。そこが私の行きつけの店になった。「おたかさん」という気っぷのいい女将さんがいて、非常によく面倒をみてくれた。なにしろ週に2、3回は通って浴びるほどツケで飲んでいたが、ボーナスのとき請求されるのは3万円ほどだった。「こんなに安くていいの」と尋ねると「偉い人からはちゃんともらっているからいいのよ。あなたも偉くなったらきちんと払ってね」という返事だった。いわやる一種の出世払いということだった。

店の常連客は画家、陶芸家、随筆家、京大教授などの文化人だった。あるとき顔を出すと作家の司馬遼太郎さん、水上勉さんがそろって来ていた。2人はなぜか離れた席に座っており、私は司馬さんの隣の席に座ることになった。女将が「今年入った毎日の記者さん」と私を紹介、名刺を交わした。

司馬さんは「いまサツ回りですか。忙しいでしょう」と問いかけたあとサンケイ新聞記者時代の自分の体験を語り始めた。司馬さんは1948年から1952年まで4年間、京都支局に勤務している。

「私も京都支局振り出しですがサツ回りはやりたくなかった。サツ回りは仕事に追われて自分の時間が取れない。そこでね。お寺まわり、即ち宗教担当を希望したんです。そしたら希望を聞き入れてくれた。お寺回りは一日中自由時間みたいなものです。そこで文献を読みまくりましたね」

「司馬さんは記者クラブのベッドで寝てばかりだったという噂を聞きましたが」

と尋ねると

「ハッハッハ、やっぱり見られていましたか。自宅で夜遅くまで文献を整理したり、ものを書いたりしていましたからね。私にとって記者クラブは寝る場所だったんですよ」

という返事だった。宗教担当の記者クラブがどこにあったのか正確には知らないが、多分、西本願寺あたりだと思う。

私は続いて

「最近読まれた小説で、これは読みなさいというものはありますか」

と尋ねた。すると

「あそこにいらっしゃる水上さんの『越前竹人形』ですよ。これはぜひお読みなさい」

と声を上げて返事された。水上さんの耳にも入ったらしく、水上さんがこちらを向いて頭を下げた。

私はさらに「深沢七郎をどう思いますか」と尋ねようとしたとき、司馬さんと水上さんは立ち上がり、「ではこれで」と帰っていかれた。おそらく別の店に行かれたのだろう。いつかまたお会いできるとおもっていたが、その機会は訪れなかった。

蜷川虎三京都府知事

私が毎日新聞京都支局に赴任して驚いたのは、5月1日のメーデーに市内の小、中学生全員が参加していたことだった。10万人以上の集会の前の方は子供たちで溢れていた。メーデーは労働者の祭典だが、そこになぜ小、中学生を参加させるのか、教育として意味があるのかどうか疑問に感じたからである。すべては革新的といわれた蜷川虎三知事の指示だった。

どんなに怖い知事だろうと思っていたが、その蜷川知事がときどき三条御幸町にあった京都支局にやってくるようになった。京都タワー建設反対の世論醸成のためだった。支局は反対派の拠点になっており、主導していたのは蜷川知事だったのである。支局に入ってくると知事はわれわれ新米記者にも「がんばれよ」と声をかけてくる気さくなおじさんだった。

京都タワー建設にからんで景観論争が起きていることはその前の年から承知していた。京都では東寺の五重塔より高い建造物は建ててはならないという不文律があった。しかし京都の表玄関にランドマークを作りたいとして京阪電鉄グループが京都タワー構想を発表、学者、文化人たちが「歴史的都市にふさわしくない」と反対運動を繰り広げたのである。

京都の財界は建設を支持、建物の設計が京大関係者だったため京大系の学者は沈黙、反対運動は広がらなかった。結局「タワーは建造物ではなく工作物である」という理由で承認され、私が赴任したときには建設が始まっていた。

けれども知事は諦めきれないらしく、支局にやってきて府政担当記者に「○○さんがデザインがおかしいと言っている。記事にしたらどうか」とか「××さんはもっと低くすべきだと言っている」など記事化を促していた。ときには朝日の記者もやってきて打ち合わせしていた。こうした反対も効果なく京都タワーは1964年8月完成した。

現在、京都タワーはすっかり京都の街に融けけ込み、シンボルとなっている。この私でさえ、新幹線の窓から京都タワーを見るとなんとなく安らぎを覚える。同時にあの反対運動は何だったのだろうと思うのである。

関牧翁天竜寺管長

毎日新聞社に入社した私の最初の赴任地は京都だった。あとで聞くと入社試験の成績で振り分けられたようだった。支局員は23、4人と全国で一番大きな支局だった。特徴は、お寺回りという担当が2人もいることだった。入社したばかりの私の担当は御多聞にもれずサツ回りである。サツ回りは4人いて私の担当は西陣署、太秦署、北署だった。行政区画でいうと上京区、右京区、北区である。

午前中は各警察署を回って前日からの事件、事故を取材し支局に送稿、午後は町ネタ探しである。担当区域には多くの寺社仏閣、観光名所があった。そうしたところを訪ね歩いて町の話題を拾うのである。

私は公開されて間もない天竜寺をよく訪問した。すると関牧翁管長の居室に通される。老師はそのころ60歳を超えたばかりだったと思う。600年もの間非公開だったのを公開したわけと天竜寺のすばらしさを熱っぽく語り、あちこち案内してくれた。そして居間で煎茶を淹れてくださる。ときには抹茶も立ててくださる。

私が「作法をよく知らないので」とためらっていると「近頃、抹茶も煎茶も形式がどうのこうのとうるさい人が増えているけど、形式に拘らず自然にふるまうのがいいんです。万事自然に行動すれば間違いないです」と教えられた。天竜寺は心の落ち着く場所だった。