谷川さんと羽生さん

 藤井聡太二冠の活躍もあり、将棋界はブームに沸いている。めでたいことである。将棋をスポーツとみなして特集した文芸春秋社の雑誌「number」は増刷につぐ増刷で23万部を発行したという。

 私は過去、将棋のタイトル戦を一度だけ観戦したことがある。第44期王将戦の第2局である。あの阪神淡路大地震の二日後に栃木県日光市で行われ、私は下野新聞監査役の肩書を利用してもぐりこんだのである。その時の王将は谷川浩司九段、挑戦者は羽生善治六冠だった。羽生六冠が王将位も取って全タイトルを独占するかどうか注目されたタイトル戦であった。谷川王将の住む神戸のマンションは液状化現象で大被害を受けたという情報も流れていた。

 前夜祭を兼ねた懇親会で私は谷川王将に尋ねた「こんな大変なときにこんな遠くまで来て戦うのは負担ではないですか」。王将の返事は「私は将棋を戦うために生きているのです。地震は関係ありません」という見事なものだった。羽生六冠にも不躾にも聞いてみた。「被災した直後の谷川さんと戦うのは、心理的圧迫感を感じませんか」という私の質問に羽生六冠は「われわれは将棋を指すことを仕事にしています。王将もよくわかっておられるはずです」という答えだった。二人からは勝負に徹するという気迫だけを感じた。

 宴会が終わり自宅に帰った後、羽生さんへの質問はすべきでなかったと後悔した。羽生さんがプレッシャーを感じたかもしれないと気付いたからである。日光での対局は結局谷川王将の勝利だった。羽生さんが谷川さんの気迫に押されたのか。あるいは私の質問にプレッシャーを感じて忖度したのか、どちらかだろうと思った。

 第44期王将戦は第7局までもつれ込み谷川王将が4勝3敗で防衛したのだった。私が羽生さんの7冠制覇を妨害したのではないかという罪悪感にしばらく悩まされる日が続いた。胸のつかえが降りたのは1年後、羽生さんが六つのタイトルをすべて防衛したあと、谷川さんから王将位を奪って7冠を達成したときだった。私は羽生さんの7冠達成を1年遅らせたのかもしれない。

スチュワーデス殺人事件

 私は昭和33年夏、世界初のジェット旅客機「コメット」のロンドンー東京-ハワイーニューヨーク定期便を開設した英国海外航空(BOAC、現BA)東京支社に入った。羽田空港勤務で仕事の内容は乗客の荷物の搬送、航空貨物の取り扱い等である。24時間勤務で3日おきに1日の休みがあった。給料は非常によく、大卒の初任給くらいはもらえた。

 ハワイからの便にはパイナップルを持ち帰る人がかなりいた。完熟したパイナップルは遠くからでも強く匂うのですぐわかるのだった。そのパイナップルを田舎の両親に送りたいと思った私は、スチュワーデスに頼むことにした。

 BOACの日本人スチュワーデスは4人だけだった。いずれもミス日本に選ばれても不思議ではないほどスタイルがよく、美人だった。ツンとしている人が多いなかで、ときどき口をきいてくれる森永さんというスチュワーデスがいた。きさくなお姉さんだった。彼女に頼むと「いいわよ」と二つ返事で引き受け、1週間後のフライトで持ち帰ってくれた。代金を払おうとすると、「一個150円たからいいわよ」と受け取ろうとしなかった。

 その森永さんが昭和34年3月10日、東京都杉並区の善福寺川で死体となって発見された。私にとっては一大ショックだった。まもなくベルギー人のカトリック神父が容疑者として浮かんだ。しかし日本人の間では「神父がそんなことするはずがない」と考える人が多く、冤罪ときめつけて神父にインタビューする作家まで現れた。警視庁もそうした空気に遠慮したのか、捜査に慎重となり、神父はベルギーに帰国してしまい、事件は迷宮入りになってしまった。

 カトリック神父によるセックス・スキャンダルがここ数年明るみに出て、神父への信頼は落ちてきている。今の世だったら森永さんの霊も慰められたろうにな、と思うこのごろである。

異常な日本のマスコミ

安倍晋三首相が8月28日、突然、辞任を表明した。持病である潰瘍性大腸炎が再発し、国民の負託に応えられなくなった、というのが理由である。第二次安倍内閣発足以来7年8か月に及ぶ長期政権も病には抗しきれなかったのである。

 この長期政権下で安倍首相が成し遂げた業績は計り知れないほど大きい。民主党政権下で失速した日本経済を立て直し、外交の力で国際的にも日本の存在感を際立たせた。歴史に残る宰相だったといえる。

 ただ残念だったのは日本の一部マスコミとの闘いがあったことである。なかでも朝日新聞は安倍を首相の座から引きずり降ろすことを社是としていた。モリ・カケ問題、桜を見る会問題などはこの社是に基づき懸命に掘り起こされたといえる。

 「社是である」と公言した故・若宮啓文朝日新聞主筆に何故なのか尋ねたことがある。イデオロギー的に相容れないというのは判ったがもう一つ彼が口にしたことは「記事に文句をつけすぎる」ということだった。確かに安倍首相は、父親の晋太郎氏の秘書官だったころから執拗に注文をつけるとして有名だった。おそらく潔癖な性格によるものだろうが、やややりすぎだったと言えるかもしれない。。

 私がかつて文芸春秋社から「特命転勤」を出版したとき、政治部や整理部からしばしば「安倍晋三から何か言ってきただろう」と詰問された。「特命転勤」は私が毎日新聞経営企画室に在籍したとき携わった旧国鉄所有の国有地払い下げと大阪本社建設問題の内幕を書いたものである。その中で私は、私と国鉄担当者の間で決めた取引価格よりも5億円多い金額が当時の大蔵省(現財務省)から請求され、支払われていたことを知り、この5億円は政治家への謝礼金だと推測した。毎日新聞OBでもある安倍晋太郎から竹下昇蔵相へ、そしてその金が中曽根康弘元首相が設立した平和総研に寄付されてそれが竹下首相の誕生につながった、と推論したのである。毎日新聞社は公式に否定したが、政界では安倍晋三の言動が注目されていた。私への苦情がなかったことで、私の推論はそれほど間違っていないと認められたのである。

 いずれにせよ朝日の安倍批判はその後も続き、朝日の影響を受けたマスコミや知識人が安倍首相への攻撃を続けた。退陣表明後世界の多くの指導者たちが安倍首相の功績を称えるなか、朝日新聞は29日、30日と紙面の多くを割いて安倍首相在任中の負の遺産を特集している。またネットでも「ようやく退陣する。乾杯」といった書き込みがある。異常であり嘆かわしい。

広島地裁の「黒い雨」判決を受け入れよ

広島地裁は7月29日、原爆投下直後に降った「黒い雨」を浴びながら地域外だとして被爆者と認められていなかった84人について、被爆者として認定するよう国に命じる判決を言い渡した。画期的かつ妥当な判断である。

黒い雨を浴びた人で被爆者と認定されるのはこれまで、気象台観測によって大雨が降ったとされる地域を線引きし、その内側の人だけを対象としてきた。被爆者手帳が交付されると治療費などで国の支援が得られる。しかしその後の調査で黒い雨が降った地域はかなり広範囲にわたることが判明、線引きの外側にいた人のなかにも被爆者特有の症状を示す人が多数現れた。広島県と広島市は国に対して被爆者援護区域の拡大を求めてきたがが、国は対象者が非常に拡大するとして認めてこなかった。今回の判決はこうした国の不作為を批判する意味もあった。

判決を受けて広島県、広島市は国に対し、控訴せずに判決をそのまま受け入れるよう要請している。当然である。国はこの際、判決を受け入れるべきである。

コロナ対策に自信を持て

政府が6月24日、突然、新型コロナウイルスに関する専門家会議の廃止を公表した。ほぼ同時に日本記者クラブで記者会見していた専門家会議のメンバーは、西村康稔経済再生相が廃止を発表したと記者団から聞かされ「知りませんでした」と驚いた表情をみせた。それぐらい唐突な発表だった。しかも、自民党や公明党にも事前の説明がなかっといい、与党からも不満の声が出ている。

 専門家会議は今年2月、クルーズ船のダイアモンド・プリンセス号が横浜に入港したあと政府への提言機関として作られた。これまでに機会あるごとに有益な提言をし、わが国の感染者、死亡者数抑制に多大な貢献をしてきた。しかし政府との間にいろいろと意見の相違があったようである。24日の会見でも専門家会議メンバーは「1年は覚悟しなくてはならないという文言が削除され、無症状陽性者からも感染するという表現もパニックを生じるとして削られた」と学者としては意に沿わないことがあったという事実を明らかにしている。

 もともと政府の中には、自分たちが決めた対策があまり評価されないことにいらだちがあり、不満の矛先が専門家会議に向けられたといえるだろう。しかし我が国には政府や首長の施策を何でも批判するのが責務と勘違いしている記者が多いから、国内の評判はあまり気にしない方がいい。安倍首相の「全国一斉休校」要請や小池都知事の「場合によってはロックダウンも」という発言は国民の感染症への警戒心を高めるうえで極めて適切だったことは多くの人が認めている。欧米からも評価されている。政府はもっと自信を持つべきである。

西村大臣は専門家会議にかえて新しく「新型コロナウイルス感染症対策分科会」をつくるとしている。一方 東京都で27日の新しい感染者が57人になるなど全国の感染者数はこのところ再び増加傾向を示し始めている。新組織をうまく機能させるよう、政府は万全を期すべきである。

明るい話題の藤井七段

 コロナ禍のなかで明るい話題となっているのが高校生棋士・藤井聡太七段の活躍である。史上最年少でヒューリック杯棋聖戦のタイトル挑戦を決め、しかもその第一局を勝利で飾った。相手は現在将棋界で最強と言われている渡辺明三冠だからなおさらである。8日に行われた対局は、歴史に残る名局といえるだろう。

 私は素人ながら藤井七段の将棋に魅せられ、いつの間にか時間がある限り、藤井七段の対局をabemaテレビの実況で見るようになった。毎日新聞で名古屋勤務のとき、陶芸家に会うため瀬戸市に何回も足を運んだという体験があり、瀬戸市出身という藤井七段に親しみを感じたためでもある。

藤井七段はAIも予想していない手をときどき指してそれで勝ってしまうのだから、実に面白い。昨年の王将戦挑戦者決定戦では一瞬の隙をつかれて広瀬章人八段に敗れたがその後は28勝2敗と勝ち星を重ねている。今回のヒューリック杯棋聖戦予選でも菅井竜也八段、佐藤天彦前名人、永瀬拓也二冠をそれでなぎ倒してきた。

 ヒューリック杯棋聖戦は五番勝負。コロナ禍とあって、いつもは地方の有名旅館が会場となるが今回は東京、大阪の将棋会館がメイン。藤井七段はあと2勝すれば最年少でのタイトル獲得者になる。しかし相手が渡辺三冠だけに容易ではない。9日のテレビで田中寅彦九段は「これで五分五分」と語っていた。しかし「ひふみん」こと加藤一二三九段はブログで「藤井七段の3連勝もありえる」と述べている。勝負のヤマは6月28日の第二局になりそうだ。楽しみである。

現代自動車を育てた三菱自動車

中国のメディア、今日頭条はつい先ごろ「日本のエンジンを研究して数十年経つがいまだに理解できないのはなぜか」という論文を掲載した。設計図を手に入れてそれに従って製造しても、何十台も分解して調べても、日本製には敵わないというのである。編集部の推定では、素材に差があること、日本は熱間加工していることではないかと結論をだしている。

エンジンについて私には忘れられない体験がある。昭和49年(1974)の秋だったと思う。私は毎日新聞中部本社経済部で自動車担当をしていた。当時は自動車の50年排ガス規制を各社がどうクリアするかが焦点になっていた。中部本社管内ではトヨタがメインだが岡崎に三菱自動車岡崎工場がありそこも重要な取材先だった。

ある晩、私は岡崎在住の技術担当の家に夜回りをかけた。トヨタの副社長宅から回ったので、時刻は午後10時半を過ぎていた。それでも応接間にあげてもらえた。三菱の排ガス対策をいろいろ尋ねたが難しい技術のことを根ほり葉ほり尋ねるから時間はあっという間に過ぎる。すぐに11時半になった。

すると技術担当はしきりに時計を見てそわそわし始めた。「明日は休日だからまだいいでしょう」というと、「実はまもなく現代自動車の技術者が来ることになっているのです」と驚くべきことを口にした。「え、あの韓国の」と尋ねると「そうです。うちと現代が技術提携したのはご存知でしょう。設計図からなんからみんな渡しましたが、どうしてもいいエンジンが出来ないといって毎日来るんです。エンジンは設計図を見たからと言って作れるものではありません。数十、数百のノウハウが蓄積されています。ノウハウをマスターしないと作れません。そのノウハウを教えてくれと言ってきているのです。私が話したことはすぐに本社に伝え、実際に製作してその結果を報告してくる。なかなか全部はマスターできませんから、毎日のようにやってきて、足りないところをまた教えている訳です」

「いくら技術提携したからといってそこまでやることはないのでは」という私の問いに対して技術担当は「社として教えると約束した以上、面倒を見なくてはなりません」と答えた。

当時現代自動車は創立10年に満たない会社だった。しかし1か月以上にわたった技術担当への夜の訪問で、現代自動車はゼロ戦以来積み上げた三菱の生産技術をすべて習得したのだった。いまや現代自動車は世界有数の自動車会社に成長した。一方の三菱自動車は日産自動車の傘下でかろうじて生き残っている。

9月入学制はコロナ第二波次第

前のサイトが動かなくなったので、今後はこちらで執筆します。

文部科学省は19日、各省事務次官会議の席で来年9月からの採用が検討されている学校の9月入学に関して二つの案を提示した。一つは一挙に移行する案、もう一つは5年間かけて実施する案である。

9月入学案は、新型コロナで学校の長期休校が続くなか、大阪の高校生が署名活動を始め、全国知事会で吉村洋文大阪府知事、小池百合子東京都知事ら知事の半数以上が賛成して盛り上がった。世界各国をみてもほとんどが9月入学制であり、いまの4月入学制だと他国に留学する場合も、他国から留学生を受け入れる場合も都合が悪いからである。コロナ禍で授業ができたところ、できなかったところで不公平が生じるという理由もあった。

しかし9月入学制に変えると就職など社会に与える影響が大きい。慎重論も根強かったが最近は教育界からも慎重論が出るようになった。来年9月から実施することになると、新一年生は2014年4月2日から2015年9月1日までの15か月に生まれた子供になる。通常より5割近く増える。教師も足りないし、当該の子供たちにとっても受験戦争、就職活動が厳しくなるからである。19日の文科省案は、5年かけて実施する案を参考までに出したのである。

慎重論はコロナ感染者が落ち着きをとりもどしてから強くなってきた。どちらになるかは、秋にも訪れるだろうと予想されているコロナの第二波の状況次第ということになりそうだ。

引き揚げ者は韓国に財産返還を求めよう

 韓国では日本企業に対し、戦時中の元徴用工に賠償を命ずる判決が次々と出され、差し押さえさえ行われている。日韓基本条約と請求権協定によって双方とも財産、権利、利益の請求を放棄すると国家間で約束しているにもかかわらずである。韓国政府は「司法の判断である」と判決を尊重、日韓折半で基金を設立する案を提案している。。

引揚者としての体験から言えば、元徴用工たちの不満の発端は、自分たちが日本にいた間に日本が敗戦、日本人の財産収奪のチャンスを逃したという点にあった。戦後の仁川の混乱は元徴用工が帰国してから始まっていることは実情を物語っている。その混乱は米軍が制圧して彼らのフラストレーションは高まり、時を経て日本企業に矛先を向けてきたと推定できる。

元徴用工への賠償が認められるとすれば、請求権協定によって放棄させられているわれわれ引揚者が韓国に残してきた財産の返還も認められるべきである。もともと古くからの国際法では、戦時でも私有財産を尊重すべきという原則がある。朝鮮での財産が全て没収されたことこそ異常なのである。引揚者とその家族はこぞって韓国の裁判所に、財産の返還請求をしたらどうだろうか。

深沢七郎さん(2)

 京王井の頭線東松原駅近くの銭湯で初めて出会った私と深沢さんは、湯船の中で10分ほど話し合ったあと「ぼちぼち出ましょうか」と二人で脱衣場に向かい、服を着た。すると深沢さんは

「今からうちに来ませんか」

と私を誘った。折角有名人と顔見知りになったのに、このまま別れるのはもったいないと思っていた私は深沢さんについて行った。

「うちと言ってもねぇ、俺は独り者の居候でね。本当は弟の家だけどね」

と言いながら着いたのは、私の下宿とは井の頭線をはさんで反対側の羽根木町一丁目で表通りから一本入ったところだった。直線距離にすると私の下宿から100メートルとは離れていなかった。

表札に「深沢貞造」と書かれた弟さんの深沢邸は木造一部2階建てで建坪約200平方メートルくらいのお屋敷だった。玄関を入ると左側が洋間になっており、そこが応接間兼深沢さんの居間みたいになっていた。ギターが何本か壁にかかっていた。 深沢さん、お茶を入れて応接間に現れた弟さんの奥さんに

「さっき風呂で会ったんだけど、いい人みたいだからこれからちょくちょく来て貰うのでよろしく」

と私を紹介した。そして私に言った。

「私の原稿を清書してくれる人を探しているんです。やってもらえないだろうか」