深沢七郎さん(1)

 昭和32年(1957)のことである。大学受験のため高校の卒業式を待たず2月末に広島から上京、大田区南千束の姉・祥子の下宿に転がり込んだ。受験には失敗、6畳一間と狭いため4月中頃、世田谷区の松原四丁目に引っ越した。予備校に入学する金もなく、南千束では近くの電機工場でアルバイトしていたが松原に来てからアルバイト先は見つかっていなかった。

 所在なく、混まないうちに風呂に入ることにし、午後2時過ぎ、井の頭線東松原駅近くの銭湯に出かけた。狙いどおり入浴客は5、6人だけだった。 ゆっくりと湯船につかり、洗い場で身体を洗っていると隣に四十がらみの男の人が座って声をかけてきた。

「あなた、学生さんですか」

 銭湯で声をかけられるとは思っていなかったのでその人の顔を見つめていると

「わたし、深沢七郎です」

と名乗った。

「え、あの『楢山節考』のですか」

と尋ねると

「そうです。読んでくれましたか」

という返事に私は驚いた。第一回中央公論新人賞に輝いた『楢山節考』を、本を買う金がない私は、広島県双三郡吉舎町(現三次市吉舎町)の本屋で立ち読みしていた。

「こんな文体で、こんなおどろおどろしいことをさらりと読みやすくよくも書けるな」

と感心した記憶があった。その後単行本として出版され、大ベストセラーになっていた。

「もちろん拝読しましたよ。なんとも言えない不思議な内容だと思いました」

と言うと深沢さんは嬉しそうな表情になった。 私は上京して2ヶ月であること、松原には数日前にやってきたことなど自己紹介した。

はじめに

私はこれまで、どうしても書き残しておかなければならないこととして、毎日新聞経営企画室時代の国有地払い下げ交渉と大阪本社の土地活用問題を「特命転勤」(文芸春秋社)で、また終戦直後の朝鮮・仁川(現インチョン)の混乱の様子を「降ろされた日の丸」(新潮新書)で公表してきた。 しかし私にはまだまだ書き残さなくてはならないことが沢山ある。例えば作家の深沢七郎さんのことである。深沢さんと私は昭和32年から2年余、極めて近しい関係にあった。「楢山節考」で一躍有名になってから「風流夢譚」の構想を練り始めるころまで、作家として最も充実していた時期である。 これまで人に話したこともなかったが、令和時代が始まるとほぼ同時に私は81歳になった。残された時間はそう多くない。そういえば令和の典拠となった万葉集は深沢さんの唯一の愛読書だった。これを機に、ときに時事評論を交えながら綴っていきたい。

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